ローダンセ(仮)

※この作品は執筆中または没作品のため、途中までしかありません。※


 春の澄んだ空気が羽野広(はのひろ)町に送り込まれる。いわゆる、春一番という名の強風だ。
 俺は羽野広町の団地の一室に住んでいる。市によって造られたこの市営団地は築何年経つか知らないが、とにかくオンボロという言葉が似合う。
 もちろん俺の家も例外ではなく、南側の窓は春一番によって「割れるううぅぅ」と音をたてている。長い間住んできた愛着のある家だけに、今は窓を健気だとさえ思えてくる。
 
 俺の通う学校は、家から徒歩で20分歩き電車に10分揺られたのち、徒歩10分で到着できるところにある。40分で着ける、というのは果たして早いのか遅いのか、周りの状況をよく知らないので答えかねるが、少なくとも俺は、1年間通い続けている俺は、短いとは思わない。朝の時間は貴重だからだ。
 飯を食べる時間もおしい。テレビを観る時間もおしい。そんな俺はいつもギリギリまで寝ている。人間が睡眠という休息を十二分にとって何が悪い。
 だが時間管理はしっかりしているつもりなので、今まで俺は遅刻をしたことがない。あくまでできる範囲内で贅沢をする。これが俺のポリシーだ。
 
 モノマネをしてる方ではない春一番が全力疾走している朝7時。窓の叫びによって俺は目が覚めた。顔を洗って歯を磨き、着替える。
 7時20分。俺は家を出た。駅に向かう途中のコンビニでおにぎりを購入し、破れた海苔、空中分解した鮭や米と格闘しながら歩を進める。
 ふと立ち止まり、道の片側にある草原を眺める。草原とはいっても、ちょっと遠くを見れば新幹線の高架が見えるし、ここ以外は田んぼなので面積は割と狭い。
 面積は狭くても、俺はこの緩やかな斜面に腰を下ろすのが大好きだ。学校の帰りはいつもここで新幹線を眺めている。
 しかし今は忙しい朝。俺は再び足を動かし、駅へ向かった。
 
「なぁ知ってる?」
 俺の友人一号が、到着したばかりの俺に唐突に訪ねる。
「何が?」
当然俺は訳が分からないので質問で返す。
「今年入る一年の話なんだけどよ。」
「一年の女子の話、か?」
一号が人の話をするときは大抵女がらみだ。
「そうそう。でさ、高峰っているじゃん?あいつの妹が入学してくるんだって。」
「高峰・・・高峰涼子か。ってことは、美人なんだろうな。」
「そう!あの高峰の妹なんだから美人だろう、って話で持ちきりよ、脳内で。」
「・・・で、俺にどうしてほしい?」
「一年で入ってから部活見学とかするだろ?で、高峰妹は生け花やるらしいのよ。だから・・・な?」
「だいたい話は分かった。だから俺を誘ったのか。」
「そう!そうだよ今回の匠、佐藤くん!」
 俺は生け花部に属しているから、俺と一緒にいることで極力違和感なく部活に接し、そして体験入部した高峰妹と仲良くなりたいということらしい。
「でもお前も知ってると思うけど、俺ほとんど部活に顔出してないよ。」
「あー知ってる。でも卓球部が押し掛けるよりはマシだろ?」
「・・・わかった。」
「じゃあそんときにな。」
と、会話を切り上げたときに予鈴が鳴った。
俺は早歩きで授業のある教室へと向かった。
 
 帰り道、草原の上。俺は後悔していた。しまった、これで俺は部活に顔を出さなくてはいけなくなってしまう。
 部活に入らなければならないという面倒なシステムの我が校で、帰宅部志望だった俺は活動が適当だと聞いた生け花部に入部した。
 生け花部に属しながらも実質活動は全くしていない、それが一年間のスタイルだった。最初の頃は参加していたが、前期中間テストのあたりから全く行かなくなった。なので今更顔を出すというのもなんだか気まずいものがあるわけだ。
「でもまぁ・・・約束しちゃったし仕方ねぇか・・・。」
約束はきちんと守り、なんだかんだで納得できるのが俺の長所だと自負している。
 ふと腸から股にかけて、気体の溜まった違和感を感じたため、草の感触を残す尻を浮かせ、一発軽く放出した。その瞬間、背後に人影が見えた。
「!!!」
俺は驚いて声も出せず、後ろを振り返った。
 背後をゆっくり通り過ぎようとした人影は、道の遠くを小走りで走っていた。シルエット的に女性だろう。今どき珍しいポニーテールを揺らして走っていた。
「あー、はずかし。」
恥ずかしかったが二度と会うことは無いだろう。この恥ずかしさはすぐに忘れられそうだ。
 
 帰宅。コンビニで買った焼き肉弁当を食べ、宿題をする。カリカリとシャープペンシルの芯が紙と擦れる音が響くこの家は、俺一人で使っている。両親と共に離島に住んでいて、俺だけこっちにきたので、必然的に独り暮らしになってしまっている。
 料理はコンビニで買ったものが多い。バイトが禁止なので、月10万の仕送りでどうにか暮らしている。一年経つと慣れるもので、昔はさびしかったが今ではこれが当然になっている。
 天井を見上げ、しばしぼーっとする。
・・・。
 宿題を終わらせると、時刻は夜の11時だった。シャワーを浴びて歯を磨き、布団に入る。暗闇に慣れた目で天井を見る。
・・・。
 今日もいつも通り疲れる日だった。あと・・・。
 色々なことを考えながら眠りに落ちた。
 
「そういえばお前、誰から高峰妹が生け花部に入りたい、なんて聞いたんだ?」
 学校に到着するなり俺は一号に尋ねる。
「高峰姉が女子と話しているのを聞いたんだよ。『生け花部?じゃあウチの涼子、よろしくね。』みたいな感じで。」
「なるほどね。ところでその話し相手の女子って誰よ。」
「あ?なんでそんなこと聞くんだ。確か・・・んー、ポニテだったけど・・・すまん覚えてない。」
「そうか。まあいいや。」
ポニテ、・・・ね。
キーンコーンカーンコーン
「あー面倒くせえ授業が始まっぞーう。」
 
 帰路の途中、俺はいつもの所に座っていた。少し期待していたのかもしれないけど、恥ずかしくなるのであまり考えないようにする。
 数十分が経過し、俺は家へ向かった。草原には誰も来なかった。
 
 そんな毎日を過ごして入学式の日。入学式は一年生と大人だけで行うらしいので、めでたく進級した俺は休日に変身した平日を楽しんでいた。
 楽しむ、とは言ってもコンビニに行っていつもの所に座って家でゴロゴロする、休日と変わらない過ごし方だ。でもこれが俺にとっての平和、楽しみだった。
 
 入学式から数日が経った。
「おいおいおいおい佐藤!今日は待ちに待った部活動見学の日ですよ!」
「あー、そうだな。」
「おいおいおいおい忘れちまったか?高峰い・も・う・とだよ!」
「あー、そうだったな。放課後な。」
忘れるわけがない。俺がわざわざ部活に行くなんていう面倒臭い日のことを。忘れるわけがない。
 
 進級したてなので、授業も先生の長い話とかで時間がほとんど潰れるんだろうな、と思っていたが全然そんなことは無く、授業はガンガン進められていった。
 しばらく怠けていた身体にとってはこれが苦痛で、放課後には自重が十倍になったんじゃないかと思うほど重く感じた。
「おいおいおいおい大丈夫か佐藤君!」
「おいって言い過ぎだろお前・・・。ああ疲れた。」
「そうか疲れたか!じゃあ部活行こうか!な!佐藤君!」
「・・・ああ。」
恐らく一号は明日になるまで俺の話を聞き、正確に返答することはないだろうと思う。重い体を急かす一号に押されて和室までやってきた。
「生け花は・・・和室1だよな佐藤君!」
「そうだよ。あとお前気持ち悪ぃ」
「さぁーて、いくぜー!」
俺のツレである設定だというのに一人でさっさと入って行ってしまった。半開きになったふすまに、俺は手をかけてゆっくりと開いた。そしてゆっくりと和室に入ると、他の部員に久し振り、など声をかけられた。俺は適当に「ああ、久し振り」と答えて壁に寄りかかり、腰を下ろした。
 まだ一年生が来ておらず、少々落胆した様子の一号は、そわそわして「一年生まだですかね?」としきりに部員たちに尋ねていた。
 俺は座ったまま目を伏せ、畳をただ見ていた。しばらくそのままでいると、一号のテンションが突然上がった。
「おおおお、ようこそようこそ生け花部へ!」
どうやら一年生が来たらしい。お前生け花部じゃねぇだろ、と言いたくなった口を塞ぐ。
「じゃあ名前教えてもらおうかなー?」
高峰妹を探る為の質問だろう。高峰以外の女子が少しかわいそうに思えてくる。
「ふむふむ、石塚ちゃんかー」
興味ありそうなフリをして、目的は高峰妹のみ。ああいうのが世間でうまく渡っていくんだろうな。そんなことを考えていると突然一号の声がクリアに耳に入ってきた。
「へぇ、君、高峰ちゃんっていうのかー!」
ピクッと俺の体が震えた。高峰の妹、見てみたい、という好奇心から思わず顔を上げる。そこにはテンションが上がった一号と話している可愛い、というより美しい女子がいた。
 ああ、高峰の妹なだけはあるな、と自分の中で勝手に評価し、少しの自己嫌悪を覚える。再び畳に目を向ける前に和室を一通り見渡すと、部屋の隅の方にポニーテールの女子がいた。
「・・・!」
近頃では珍しいポニーテール。でも最近どこかで見たことがあるポニーテール。草原で俺が盛大に恥をさらしてしまったあの時、道を駆けて行ったポニーテールとそのポニーテールが重なる。
「・・・そんなわけねぇか。」
と自分を安心させるために独り言を呟く。
 俺はしばらくソイツを見ていたらしく、ソイツと目が合った。途端、ソイツの顔は恥じらいと申し訳なさを併せ持った赤面に変化した。
 このとき俺は悟った。やっぱりあの時のか・・・。二人の間に耐えがたい気まずさが流れる。声をかける必要が全くないにも関わらず、声をかけなければ、と思ってしまう。
 その気まずさに俺は負けてしまった。気が付くと俺は立ち上がり、ソイツの隣へ移動していた。
「・・・君も体験入部?」
あの時草原にいましたか、なんて絶対聞けない。
「あ、いや・・・いちね・・・じゃなくて二年生。」
予想外。俺と同学年らしい。なのに入学式などでは見かけたことがない。
「ああ、ごめん。へえ、同じ学年か。学校ではなかなか見る機会ないからね。俺部活来てないし。」
学校では、と付加してしまったことに後悔する。なぜか申し訳ない気持ちになる。
「あ、私、今年編入したから、会ったことが・・・無いのは当たり前、かな。」
間があった、ということは向こう側も言ってから後悔してるんだろう。
「へえ・・・。」
会話が途切れてしまった。再び気まずい空気が流れる。その空気を中断させたのはポニテのソイツだった。
「あの、あなたもしかして草原で・・・?」
口を開いたと思ったらあの事を話してきた。これで俺も逃れられない。嘘をつける自信がないから。
「あ、うん。あのとき道にいたのやっぱり君だったんだね。」
「やっぱり・・・?」
「あぁ、そのポニーテールが印象的でね。」
「あ、これ・・・。」
決してあの事には触れない。でもお互い間違いなく知っている。
「この髪型、お母さんの真似なんだ。」
ポニーテールを手で揺らしながらソイツが言う。
「お母さんもポニーテールなのか。いいね、幸せそうで。」
嫌味な感じに言ってしまっただろうか。自分の言動がいちいち気になってしまう。
「今、私父子家庭なんだ・・・。お母さんは、ね・・・。」
「あ、ああ・・・そうなんだ、ごめん。」
家庭の事情が思いのほか重くて思わず謝ってしまう。それにこういう場合は謝るのが当然だろう。
 ごめん、という言葉が会話の糸をバッサリ切ってしまい、結局部活が終了するまでお互い一言も発しなかった。
 
ハイテンションな一号と別れを告げ、家に向かう。その途中、罪悪感と期待を胸に俺は草原に腰を落ち着けていた。
 新幹線が走っていくのを見送った後、立ち上がり虚しいと感じながら腰を上げた。道に戻ろうと振り返ると、ソイツが歩いてきていた。しばし固まる。声をかけなくては。逃げてもいいだろうか。とりあえず謝ろうか。
 様々な考えが脳を駆け廻り、思考がフリーズしてしまった。すると、ソイツは俺の存在に気づきソイツもフリーズした。
頭の中で色々考えているからか、それとも距離が離れているからか、気まずくはない沈黙。和室で沈黙を破ってくれたソイツに、今回も破ってくれるのでは、と期待した自分が嫌になる。
 やっぱり今回は俺が、と俺は口を開いた。
「やあ、また会ったね。」
我ながらなんとお約束な台詞だろうか。それにこの台詞は一号みたいな奴が言うような台詞だ。
 ソイツは一瞬ピクッ、と体を震わせると、うん、とだけ答え、再び歩きはじめた。置いていかれて、より気まずくなるという事態を避けるためソイツの隣を歩く。
「この辺に住んでるの?」
何気ない疑問が会話を紡ぐ。
「うん、市営住宅なんだけど。」
「マジで?俺もだ。」
「え?そうなんだ。市営住宅って狭いでしょ?だから私いつかもっと広いところに住んでみたいな。」
「はは。俺は独りだから市営でも十分広いよ。」
母親がいないソイツに、わざと明るく独りだと言ってみる。
「え、一人で暮らしてるんだ。その・・・、ご両親は?」
「日本のどっかの離島に住んでるよ。今どうしてるかは知らないけど、仕送り来てるからまあ無事だろうな。」
「一人は、寂しくないの?私は、・・・父親と暮らしてるから。」
「全っ然。むしろ好きなことができて結構楽しいよ。」
嘘だ。少なくとも楽しくはない。
「へえ・・・。すごい。」
ふとソイツの口から称賛の言葉が出る。
「別にすごくはねぇよ。俺には両親がいるし、お前の方が数十倍すごいよ。」
あえて彼女の母親について触れてみる。触れるべきではないと知っていても。
「そう、かな・・・。じゃあ、お互いスゴイね。」
「ははっ、そうだな。おれもお前もスゴイな。普通の学生では滅多にない境遇に耐えてるんだから。」
両方スゴイと言いつつも、やはりソイツの方が大変で、スゴイに違いないが、無駄に気を使うのも疲れるので開き直る。
「普通はないよねー。」
ソイツも開き直ったようで安心する。
 お互い打ちとけ始め、会話を楽しんでいると、いつの間にか市営団地の入口だった。
「じゃあ明日な。」
「うん、明日。」
分かれの挨拶をする。明日会う、ということは俺は部活に参加しなければならないということだが、後悔はしない。気分の高揚を抑えながら家に到着し、いつもどおり、宿題を済ませて飯を・・・
「あ、飯買うの忘れてた。」
この日の晩御飯は水だった。
 
次の日、俺は喚いている腹を抑えながらコンビニに入り、いつもより多めにおにぎりを買った。量が多いにもかかわらず、完食に要した時間はいつもよりも早かった。
 
 放課後。授業を終えた俺は一号の誘いを無視して和室へ向かった。自然と歩く速さが速くなっていく。
「・・・。何急いでるんだろ、俺は。」
独り言を呟く。
「和室でソイツが待っているわけでもないのにな・・・ははは。」
と言いつつもスピードは落ちない。とうとう誰もいないはずの和室まで来てしまった。スーっとふすまを開ける。
「・・・!」
そこにはキクのような花をいじっているポニーテールがいた。
「もう、来てたのか。」
「うん、早めに授業が終わったからね。」
「・・・その花、何?」
「えと、ローダンセっていうんだけどね。ああ、これはドライフラワー。」
「え、生け花って生きている花をぶっさすんじゃないの。」
「あ、これは私の趣味。好きでやってること。」
「ふーん。」
作業に集中させてあげるためにそこで会話を切る。壁にもたれて座ると、その様子をしばらく見つめる。見つめているという意識はなかったのだけれど。
「ふう・・・これでよし。」
ソイツがやりきった、というため息を漏らす。
「すごい綺麗だな。」
作品を見た率直な感想を言う。
「ありがとう。でもまだまだ。」
「え?」
「私のお母さんもこういうことやっててね、憧れてたんだあ。お母さんのはね、こんなのよりもっとずっと綺麗なの。」
「へえ・・・。」
母について話を掘り下げることが怖かった俺は相槌だけ打って黙ってしまった。数秒間の沈黙を破ったのは俺でもソイツでもなく、ふすまを勢いよく開ける音だった。
「水瀬さんいる?!」
音を発生させた人物は、教員だった。
「・・・はい?」
少々困惑したソイツが小さく返事をする。
「うん、えっとね、今電話があったんだけど――」
ああ、この流れはお約束でいくと決していい報せではないパターンだ。と縁起でもないことを予想する。
 この予想が外れていてほしいと祈っていると、
「――水瀬さんのお父様が、事故で搬送されたらしいの。」
当たってしまった・・・!
ドクンドクンと強くなった心臓の鼓動が皮膚の内側を断続的に叩きつづける。
「・・・え?」
恐らく俺よりも強い心臓の鼓動を感じているであろうソイツが、かすれた声で返事をする。
 少し間があり、ようやくソイツは状況を理解し、慌てて教員と和室から出て行った。俺は一言も発することなくその始終を眺めていた。
 
 翌日。俺は胸に痛みを抱えたまま登校した。学校はいつもと変わらず騒がしい。いつもより騒がしいかもしれない。
昨日よりもずっと騒々しい。
耳障りだ。
うるさい。
耳が壊れる。
心が壊れる。
 
 教室から脱出した俺は頭を掻きまわしながら校内を徘徊し、ソイツの姿が無いことを確認すると、保健室へと向かった。
 腹痛頭痛を先生に訴えると、熱を計った後、ベッドで寝ているように指示された。保健室の白い天井は俺を落ち着かせてくれた。冷静になった俺に、ふと俺自身から疑問を投げかけられた。
 
「どうしてお前がそこまで心配する?」
 
考えたことはなかったが答えを導くのは簡単だ。
同情。
母親がいないということを両親健在の俺は哀れみ、さらに父親の事故が重なりさらに哀れむ。
そう、同情だ。
状況が優位におかれた余裕さえ感じている人間が、その境遇よりずっと悪い状況におかれている必死の人間に抱く感情。
自分よりもずっと低い目線に合わせてその感情を共有しようとする。
相手に少しでも精神に余裕を持たせてあげたい。
感情の共有の意思と思いやり。
 
同情?
 
 次の瞬間、俺の意識は夢の中にあった。病院の一室で泣くソイツ。ベッドは空っぽでソイツしかいない。俺はドアの側に立っていたが、近づこうと足を踏み出しても空気を踏んでしまう。でもそのことに違和感はあまり感じない。夢のなかではよくあることだ。
 しばらくあがいていると、始めて足の裏に床を感じた。ソイツに一歩だけ近づいた。そこで意識が途切れて暗闇に包まれてしまった。
 
 目が覚めてまっ白い天井が目に入る。良い夢はよく覚えていなくて、怖い夢は覚えている、とよく聞く。俺は夢をはっきりと覚えていた。一歩だけ近づいた夢を。
 その日の授業が終わった頃、俺は保健室から出て家路についた。草原を眺めながら道を歩いていると、頭がスッキリしていることに気がついた。同時に、草原に腰かけているポニテールの人影にも気がついた。

つづく